私は入院してから「心配してる」とか「大丈夫か」と言われることが多くなった。しかしながら、私はこの言葉を放つ人の一部に若干の歪みを感じている。まず、はっきり言って、そもそも「心配」なんていうものは、する意味が無い。なぜなら、「心配」は心配される側に対して何一つ影響を与えるものではないからである。

 「あの人、心配だなぁ」「あの人、大丈夫かな」

 こんな意識では「あの人」は決して変わらないし、状況は改善しない。そこで疑問に思ったのが、「心配している」という言葉を世間体を保つために使っていやしないかということだ。本当に危なそうなときには自分が害を被りそうだから傍観者で在り続け、少し回復してきた頃を見計らって、心配そうな声を出す。

 「ボクは見捨てるなんてことする冷たい人間じゃないよ」「ワタシは良い人だから、ちゃんと心配してたのよ」

 そういう言葉の裏が見え隠れする。

 どれだけ自分の苦しさを伝えても誰一人として協力者はおらず、全員が傍観者だった。冷静になったときにメリットがないことに気付き、自分がなんのために頑張ってきたのかわからなくなってしまった。

 今まで倒れるほど頑張ってきたのに「つらい」と零すと「がんばれ」という。他人が楽しく過ごすために気を配っていたのに「知らない」と零すと「冷たい」という。本当に苦しくてどうしようもなくなって「助けて」と零すと「求めすぎ」という。

 頑張らなきゃいけないのはどちらか。冷たいのはどちらか。求め過ぎなのはどちらか。そうして、そういうことを指摘するとこう言い返してくる。

 「ボクは悪くない」「オマエの勘違いだ」「ワタシはしてきたつもり」

 丸一週間考えて出した答えをたった数秒で否定する。私の一週間分の思考を一瞬で行うことのできる頭の回転の速さには脱帽である。

 もちろん、心配されることは、心配されないよりも断然喜ばしいことであるのは間違いない。当然のことながら、以前、助けてもらったのは大いに感謝している。しかし、「原因が自分にない」という、どこか傍観者的な考え方に苦しめられ続けたのも事実である。本当に心配しているのならば、何故、私が入院してしまうまで、放置し続けたのか。「苦しい」とか「助けて」だとかいう言葉に耳を傾けてくれなかったのか。悲鳴を「はい、そうですか、勝手にすればいい」という態度で聞き流す、あるいは言ってくる人間は、蓋し、「利用者」であって、そもそも友人ですらない。友人ですらない人間に苦しめられて、怨み憎しみの世界になることを誰も疑問には思わないだろう。

 はっきり言ってしまうと、こういう連中に心配される筋合いはないのだ。

 何の本で読んだのか忘れてしまったが、次の言葉がずっと心の中に引っかかっている。

自らの周りで起こる全ての問題の原因の一部は自分にある。

 自らの周りで起こる問題に遭遇したとき、自分が傍観者たることはありえないのだ。