人類の発明の中で、もっとも優れたものは電球でも蒸気機関でもなく言葉だと思う。数パターンの鳴き声で「危険」や「求愛」を表す他の動物とは大きく異なっている。言葉によって人類は情報をより詳細に伝えることができるようになった。しかし、それと同時に巧みな嘘や悪口など負の方向にも拡張されてしまった。無論、言葉による正方向への影響が大きいのは間違いないのだが、負方向の影響も無視できない。より細く鋭い鉛筆のほうが細かな線を描くことができるかのように、言葉もより細かな情報を伝えるために尖った。それはときに、他人の急所に突き刺さり致命傷を負わせることもある。

 また、言葉の難しいところは同じ言葉であっても、それを受け取る人がどのような為人かによって大きく意味合いが変わってくる。例えば、これから何か新しく始めて大きく飛躍しようとしている人に対する「がんばれ」という言葉は言われた側に大きな勇気を与える。しかし、その一方で、努力して努力して努力し続けて、倒れてかかった人に対して「がんばれ」という言葉は深く突き刺さる。責任感が強い人なら尚更「俺のがんばりは、まだまだ足りない」と洗脳され、内出血を起こしても、骨が折れて飛び出しても、ぶつかった壁を叩き壊そうとし続けるかもしれない。

 さらに情報が細かく伝えられるようになったがゆえに、「言わない」という嘘も現れた。マスコミが得意にする方法である。政治家が行ったイイコトを報道しないことによって、政治家の評価がどんどん下がっていく。謂わば、政治家の評価は減点法であり、どれだけイイコトをしていたとしても、一つの失敗を祭りあげるのである。麻生元総理大臣の漢字の読み間違いを大騒ぎして報道していたことは記憶に新しい。それに対して、日印安保共同宣言などイイコトは新聞のほんの片隅でしか報じられていない。これは「言わない」という嘘である。

 身近に起こりうる例で見てみよう。問題が起こったとき、ある人が自分が直接の原因ではないのに、「自分が原因ではないだろうか」と悩んでいるとしよう。そのときに、原因を知っている人が直接の原因を言わずとも「君のせいではないよ」と一声かけてくれるだけでどれだけ救われるだろう。それを「言わない」ことで、その人は悩み続ける。言えることですら「言わない」でいて、人が傷つく様を傍観するというのは立派な嘘である。

 そして、もう一つ。「文字」による嘘についてである。文字というものは非常に便利である。音声としての言葉と、文字としての言葉との大きな違いの一つは、「推敲」ということがある。音声は時間と共に放たれては消え、一度、放った言葉を相手に届く前に修正するのは非常に困難である。というよりビデオレターなど録音媒体で届ける場合でない限り、普通はできない。一方、手紙やメールなどといった文字媒体で届ける場合では実際に書いてから相手に届けるまでに一定の時間があり、その間に修正することができる。この過程が推敲である。

 「推敲する」という行為には情報を伝えるという観点において、利点と欠点が存在する。まず利点としてあげられるのは、相手に情報が伝わりやすくなるということだ。当然、場当たりな言葉を並べた支離滅裂な文章よりも、しっかり構成建てられている文章の方が読みやすい。しかし一方で、推敲を重ねるごとに、その文章はだんだんと伝えたかった内容から変わっていく。何故なら、人に伝わりやすい文章にするためには、文章を論理で構成し、感情はなるべく排除しなくてはならないからだ。即ち、感情・思考の列を人に伝わりやすい論理になるように順序を並べ変える作業を「推敲」と呼ぶ。本来はただの感情や思考の列なのだ。人間の思考というものはそもそも一本の論理的思考の列でできているわけではない。二律背反的な感情を複数個持っていることもある。それを伝わりやすくするために、一本にまとめあげる際に、多くの情報が欠落する。つまり、推敲している間に無意識下に重要な情報を欠落させ、「言わない」嘘を知らない間についてしまうかもしれないのだ。

 そして、その推敲できるという余地が不安にさせる。「この文章は本心じゃないかもしれない」といった思いが交錯してしまう。普段のその人の言動をよく知っていれば尚更、文字になったときに敏感に違和感を感じ取る。そして僅かな違和感が「言わない」嘘の可能性を示唆して、素直に受け取ることはできない。

 また、その他にも表情や身振りなどノンバーバルな領域にも多くの情報が存在している。どれだけ電子メールや電話など通信技術が発達したとしても、人間としてface to faceの付き合いを失ってはいけない。