まず、友人のブログから引用させていただきます。(一部レイアウトのために編集)

器が大きいということの定義について考える。寛大という言葉で片付けるには優しすぎる。貫禄ってのは建前半分な感じもする。
弱いってなんだろう。強いってなんだろう。人はがむしゃらに強くなりたがるけれど、強い人だって傷つくよ。どうして強くなりたい?負けたくないから。誰に?自分に。どうして負けたくない????
強いと感じる人ほど、ちゃんとしっかり本当に心のそこから傷ついていると思う。それはもう驚くほどズタズタになって。この世の終わりみたいに悲しむ。

たくさん傷つく人は器が大きいのではないかと思う。大きすぎてたくさん悲しまないといけないんじゃないかな。大切にしたい誰かのぶんも。

 御存知の通り「器」というものはもともと「何かを入れるもの」という意味です。きっと「人間の器」というものは喜びや怒り、哀しさや楽しさ、その他いろんな感情を入れておくものなのでしょう。それを受け止めて、自分の中に置いておくことのできる、感情の総量。それが「人間の器の大きさ」だと思います。

 でも「人間の器」って、「大きさ」だけで測ることができるものではないと思うんです。

 例えば、一つのグラスがあったとします。それはそれはとても大きなグラス。水をどんどん入れていきましょう。2Lペットボトルの水を入れても、まだ大丈夫。寸胴鍋の水を入れても、まだ大丈夫。風呂桶いっぱいの水を入れてもまだ大丈夫。

 そうやって、まだいける、まだいける、とどんどんと水を入れていくとあるところで水圧に負け、そのグラスはパリンと軽い音を立てて、割れてしまうでしょう。

 「人間の器」というものもきっと同じです。悲しみも怒りも全部全部受け止めて、全部全部、胸の中のグラスに入れていく。器の大きい人はどれだけ入れても、溢れない。溢れないままどんどん入れる。そして、どんどん中からの圧力が高まって、一つの小さな衝撃で簡単に割れてしまう。溜め込んでいた感情が次から次へと溢れ出す。

 「器」が小さいと感情がすぐ溢れてしまう。でも、あふれるだけで壊れることはありません。一方で「器」が大きすぎると溢れる前に壊れてしまう。壊れてしまうとなかなか修理に時間がかかってもとには戻らないんです。

 でも、もしガラスじゃなくてコンクリートでできた器なら、大きくても水圧に負けないくらいの強さがあったなら。

 ある一定のラインを超えた所で、「器」が大きくなると、それに見合う「強さ」が必要なのでしょう。強さの伴わない「器の大きさ」はいずれ崩壊することを意味します。

 それでは、崩壊を免れるにはどうしたらいいでしょうか。一度創り上げた大きな器を小さくするのは難しい。かといって補強するのは、たぶん周りの人の支えでしか成し得ない。他人に頼ることでしか強くなることはできません。

 一人で自分をコントロールする方法は、きっと「放水」しかありません。

 ダムでも、ある一定以上水がたまると、「放水」します。でも、もちろんいきなり「放水」はしません。放水するときには周辺に警告を出し、警戒するようにしてから、「放水」します。

 同じように、他人に「愚痴を聞いてくれ」と頼み込むのは一つ方法でしょう。もちろん他人の愚痴を聞くのは快いものではありません。でも、「愚痴る」という警告をしておけば、ちゃんと警戒しながら聞けます。いずれくる崩壊のときに不意打ちで止めどなく溢れ出す感情をぶつけられるよりもずっといいのです。

 「あの人は器が大きいから大丈夫」と言っていては、いずれ、その人は崩壊するかもしれないのです。実は弱い素材でできた巨大なグラスなのかもしれません。ちゃんと支えることで補強してあげなきゃいけない。ちゃんと愚痴を聞いてあげて放水させてあげなきゃいけない。

 我慢強い人は放水を覚えること。頼りがちな人は支えてあげたり、放水するように促してあげること。

 これが崩壊という悲劇を防ぐことになる気がするのです。