先日、「人のためになりたい」という考え方は、結局、「人に感謝されたい」というような自分勝手な欲望だ、という内容のブログ記事を読んだ。それについて、「対価」というものについて考えてみたい。

 結論から、先に述べてしまうと、この論理はある意味で正しく、ある意味で間違っている。「人のためになりたい」という考えは必ずしも「人に感謝されたい」とかいう心に由来するものではない。

 極論で話をしてみよう。有名な中国の儒家・孟子の孺子入井の警という話である。

人皆有不忍人之心。今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。無惻隱之心、非人也。
人皆な人に忍びざるの心あり。今、人の乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕惻隠の心あり。惻隠の心なきは、人にあらざるなり。
人にはみな人を忍びない気持ちを持っている。人は、幼子が井戸に落ちそうになっているのを見れば、慈悲の心が生まれるだろう。その心がないものは、もはや人ではない。

 人は誰しも他人に「大きな害」があるとき、その他人が害を被ることを知りながら、みすみす眺めていることはしない。そのとき、「利害」が頭にあるだろうか。おそらくは、それ以上に人としての倫理観や道徳心が先行することもあるのではないだろうか。

 問題はその「大きな害」というものである。例えば、井戸に入ろうとする幼子というのは死に面している。これは「大きな害」だと言って正常な人で異論を唱える人はいないだろう。それでは、人の車に傷が付きそうなときはどうか。人が転びそうなときはどうか。人が嫌がることをしている人を見たときはどうか。

 要は「大きい」の基準が曖昧であり、人によっては、死にそうになってるやつは助けるけど、骨折しそうなやつは助けないかもしれない。逆に、他人が少しでも悲しそうな顔をしたときに、フォローを入れてやりたいと思う人もいるだろう。

 そして、その価値基準が違う人同士は理解し合うことができない。小さなことも「大きい」と感じる人は、そうでない人のことを冷たい人間だと思うだろう。大きな事しか「大きい」と感じない人は、そうでない人のことをお人好しだと思うだろう。あるいは、「自分だったら、対価があるなら、小さなことでも助ける」などと裏があると考えて、「偽善者」のレッテルを貼るのかもしれない。

 「人のためになりたい」という人の中には二種類いる。ひとつめは「人のためになれ」と倫理観・道徳心で突き動かされる人。「人のためになったほうがいい」と利害で考える人。

 そして、この二種類が同一視される瞬間がある。苦しくなったときである。

 倫理観・道徳心というものは理屈から来るものではない。ふと、苦しくなってしまったときに「なぜ人のためにこんなことしてるんだろうか」などという疑念が浮かび、その「なぜ」に答えられる理屈が存在しない。そのときに、倫理観・道徳心で突き動かされる人ですら、理屈をつけようと、客観的に見て分かりやすく理屈のつけやすい「利害」を持ち出すのだ。そして、人から「結局は見返り求めてたんだね」と誤解されてしまうものなのである。

 「人のためになりたい」が「人に感謝されたい」ということから来るかという問題について、

全ての「人のためになりたい」が「人に感謝されたい」である

という命題は偽であり、

「人に感謝されたい」に由来する「人のためになりたい」が存在する

という命題は真である。

 倫理観・道徳心に突き動かされる人は、自分苦しめることが多い。

 利害で物事を考える人は、苦しんでいる他人を見ぬふりすることが多い。

 どちらが、良い悪いではなく、ただ、違うだけなのだ。ただ、価値観が違うだけなのだ。