誰しも常日頃から優しい人間になりたいと思っているものだと思いますが、自分なりの優しさというものは人の価値基準に当てはめたとき、必ずしも「優しさ」になるとは限りません。

 中学3年生のときに、友達と大げんかしたことがあります。自分では真っ当だと思う意見(ダメ出し)を歯に衣着せぬ言い方をしたせいでした。でも、この間、8年ぶりに会ったときにあの時にああ言ってくれてよかったと言われて、救われました。

 飴と鞭とはよく言いますが、言われたほうからすれば、飴は「お金」で、鞭は「投資」だと思います。すぐに使えて、その場しのぎが出来るのがお金で、今は少し苦しくなるけど、最終的には元をとるのが投資です。

 言う側の視点からしても、飴は「今のその人」に与えるから楽なんです。でも鞭は「今後のその人」についても考えながら、打たなきゃならない。しかも、恨まれるかもしれない、憎まれるかもしれない、嫌われるかもしれない――そういう恐怖と戦いながら打つものなんです。さらに、「ああ言われてよかった」と言われるまで、その恐怖と戦い続けなきゃいけない。

 そんなに怖いなら鞭を打たなきゃいい、とか、鞭を打てるほど偉いのか、とか言われるかもしれませんが、私は過去に大きな失敗や後悔を繰り返してきました。人に同じ過ちをされてしまっては、いつまでたっても人間は進歩できない。井戸に落ちたことのある人が、井戸に落ちそうな人を助けようとするのは当たり前のことです。「そんなこと必要ない」と言う人は自分だけで生きることのできて、自分だけ生きられればいい強い人だけでしょう。

 同じ失敗や後悔を他の人にしてほしくない

 この考え方は教師の多い家系に生まれた私に流れる教育者の血なのでしょうか。