昨日、ゼミの中で「批評的と自然科学的」という言葉が出てきて、論理とは何か?という話をした。そのあと、ゼミの先生と学生がTwitterで議論していた。

![中村滋延のTwitterでの発言:「わーわー言うとった」そのわーわーの論理性はどうするのよ。誰にとっても明確な公理があればわーわー言う必要はないわね。わーわー言うのはわーわーいうことで相手を納得させようとしとる訳や。わーわーいうのは論理を信じているからや。論理とは納得のための仮説みたいなもんや。論理の立て方に違いがあったり、論理の明確さに違いがあったりするけど、それだけの話し。仮説が通用しなくなって新しい仮説が次から次へと出てくるのがこれまでの歴史。論理に絶対なんてあり得ない。だからわーわー言うのよ。文系も理系もピンキリ。問題はキリだけを対象にして「文系」はだめだとか言って納得すること。また、どの分野においてもピンを分かることは簡単じゃないのよ。いずれにせよ、怖れと敬意を持たない人間は、私は嫌いだ。](http://inter-arteq.com/wp-content/uploads/2013/11/d3f9879c1f8984cd4fe7a7753cb414f8-300×241.png

この一連のツイートを見ると、先生と全く同じことを言っているにもかかわらず、どうやら先生には私が議論したかったことが伝わってなくて、的外れな解釈をされて、あげく議論と全く関係のない感情論としか言いようのない思考停止の一文に落ち着いているので、私の考えをまとめて、この記事に。

絶対的論理はありえないのは当然です。ただし、そのドメイン、そのコンテクストの中での論理は存在するはずです。それを明らかにせずに物事について納得はできません。公理があって、そこから定理を導くとき、論理的手続きが存在するのは自然科学、人文科学問わず、論理学に共通です。地図に例えると、公理がなければ、現在地が分からないのと同じ。論理的手続きがなければ、地図がないのと同じ。現在地が分からないか地図がない状態で目的地に辿りつけないように、公理と手続きがなければ目標とする定理には行きつけません。

自然科学と人文科学の理論、(語弊を恐れずいうと)汎用性が高いか、乏しいかだけの違いで根本的な手続きに違いはないのではないでしょうか。例えば、ニュートン力学は質量が小さく、速度が遅い場合には正しいですが、質量が大きく速度が速くなったときに、それでは矛盾を生じ、そこからアインシュタインが相対性理論を導いたのです。

では、ニュートン力学は間違っていて、非実用的なのか?

当然そんなことはなく、通常、私達の身の回りにある程度の質量、速度であれば、実用的でしかも正しいのです。つまり、ドメインを限定しても論理が通っていれば価値がある。人を納得させることができるということです。

人文科学ではどうでしょうか。さほど人文科学については精通していませんが、ゼミの中で話した「音楽分析」についていうと、「全ての音楽のリズムを体系化して、こういう解釈ができる!」ということはおそらく難しいでしょう。しかし、例えば、後期ロマン派の音楽にドメインを限定すれば、何か一つの理論が見えてくるかもしれない。「ショパンにドメインを限定すれば」「ショパンの後期にドメインを限定すれば」と絞っていけば、何か一つの理論が見えてくるかもしれない。そうすると、その理論自体が、その時代、その人の技法、哲学、表現力などを表すものになるのです。

つまり、質量、速度にドメインを設定したニュートン力学と、時代、人にドメインを設定した音楽分析論に質的な差異がないように感じます。

その公理系、その論理的手続きが無矛盾であるかはそれを分けることに何の意味があるのか。もしくは自分の知らない論理学があるのであれば、それを知りたい。だから、ゼミの中で問うたわけです。みなさんはいかがお考えでしょうか。