今日はちょっとエモい話。

 客観的に見て、自分は学生時代も会社に入ってからも後輩の面倒はよく見るほうだと思う。
考えてみれば、悩みを聞いたり、アドバイスしたり、そういうメンター的な立ち位置で振る舞おうとすることが多かった。というか、この1年くらいはそういう立ち位置を社内で自分が価値を発揮するミッションだと信じて動いていた。

 とはいえ、人間なので、人の悩みを聞いていると、確実にこちらの心も蝕んでいく。別に自分が悩む必要ないのに、解決しようと身の丈に合わないことに躍起になってしまっている。

 あと、怒ると人間の浅さが出てしまう気がして、あまり怒れなくなった。「痩せろよ」とか「面倒くさいやつ」とか「彼女作れよ」とか、冗談で言われてることだとは分かっているから、気に”しない”んだけど、どこかで気に”なって”いるらしく、確実に心を蝕んでくる。
 かといって、気を使われてそう言われないようになると、それはそれでなんか寂しい…とちょっと自分で考えてもやはり「面倒くさいやつ」だと思う。痛みで存在を自覚するということは、あまりいいことではないとは認識しているんだけど。痛みに鈍感になることは、とても怖い。

 そんなことを続けていると、疲れてしまって、明るく振る舞うこと自体が辛くなることもある。
ちょっと攻撃的になってしまっている自分に気づいて、何かが吸い取られる感覚。
一人になったとき、「愛されたい」とか「誰かに優しい言葉をかけてほしい」とか人に求めてしまう。
ひどい時にはこんなことを考えてしまう自分が嫌になって希死念慮が頭を掠めることもあった。

 そのくせに他人の悩みに悩んでいる後輩には「人を幸せにできるのは自分が幸せになってるときだけだよ」と吟じて、励ます。
振り返ると自分ができていないことを後輩に説くのは、すごくダサいなと思う。

 で、そんなことをボソッと会社の後輩に愚痴ってしまったときの話。
その中で印象的だった言葉。

南部さんに気にかけられた人は、南部さんに頼られてイヤだって思うことないと思いますよ

 なんというか、ちょっと泣きそうになった。

 「相手に期待しすぎてはいけない」と何かで読んだことがあって、いつの間にか「見返りを求めること = ダサいこと」っていう恒等式が自分の中で出来上がっていて、その一方で、「助けてもらうことは何かの対価だ」という背反なことを思い続けていた節がある。そのせいで、「助けてもらうためには助けないと!でも、助けを求めるのはダサいことだ!」みたいな支離滅裂なロジックが生まれていることに気づいた。

 見返りとかじゃなくて、ただ「困ってるから助けて」「疲れたから愚痴聞いて」っていうだけでいいんだなーと。

 自己犠牲という最高の自己陶酔に溺れていた自分への戒め。

 依存してしまうのはよくないけど、たまには自分に甘くならないといけないなと思った。
 ちゃんと頑張ってることは自分が一番よく知っているわけだし。