経緯

俺は会社で一度だけ泣いたことがある。
とある後輩が辞めることを知らされたときだった。
チームも違えば部署も違うし、特に仕事で絡んでいたわけでもない。

けど、かなり深く悩んでいることに気づいて、何かをしなくては、という風に思ってから、結局何もできずに、会社から去っていってしまった。
どうやら、今は元気にやっているらしいから、それはそれでいいんだけど、悔しかった。あのとき、俺に何ができたのか今でもわからないけど、それでも悔しかった。

悔しすぎて、チームリーダーという立場にも関わらず、その日、チームメンバーの前で泣いてしまった。

思えば、そこにいるのが当たり前の親友が死んだときからかもしれない。
大学入学の直前で模試を受けてる途中で容体が悪化したと連絡が入っても、模試中だから、そのあとでお見舞いに行ってやろうとか思ったら、そのまま還らぬ人になってしまった。

あの傷を未だにひきづっている。

誰かに何かをできない無力感ってものは厄介で脳みそのどこかのニューロンで、「諦めろ」と囁いてくる。馬鹿野郎と振り払っても、コバエみたいにどこからともなく湧いて出てくる。

誰かのために何かなんて格好つけてるけど、実のところ、自分の居心地の良さを守りたいってことに過ぎない。
そんなことはわかっているけど、自己陶酔でもなんでも構わないんだけど、何もできないままでいるのは悔しい。

そんなことを考えたり、忘れたり、思い出してまた考えたり、を繰り返しながら毎日をなんとなくで送ってきた。

んで、自分の中で一つ試したい考え方ができたからメモするためにこのエントリを書き始めた。チラシの裏にでも書いておけという内容ではあるんだけど、誰かに聞いて欲しかった。これを読んでくれている人には、捌け口になってもらう形になってしまうけど、申し訳ない。

本題

電車の中でぼんやりと窓の外を眺めていたときに、ふと自分に対して怒りが湧いてきた。無力感ってものは結局何もできない自分への怒りに過ぎないんだな。

そのとき感じてたのはこんなこと。

一丁前に人のことで傷つくくらいなら、そいつのために何かやってみせろ。
そいつのためになるかどうかわからなくても、とりあえず、何かやってみせろ。
人のことに傷ついて美談とするくらいなら何かをやってみせろ。
美談の主人公になって、自己陶酔するな。
どうせ自己陶酔するなら最高の自己陶酔に浸れ。

「自己犠牲は最大の自己陶酔」と誰かが言っていた。

そんで、本気で動いて、やれることをやって、とことんやって、それでもダメなときは諦めろ。

なんかそんな言葉たちが頭の中をぐるぐる回って、命令口調な割に逆に肩の力が抜けた気がした。

じゃあ、本気でやってやろうじゃないか。

バカだって笑われてもいい。

馬鹿馬鹿しいことは大好きだ。

今できることなんて、意味のあるかないかなんてわからないし、ただの無駄な苦労になるかもしれない。もしかしたら、逆に相手を傷つけるかもしれない。

知らねえよ、そんなこと。

もうアイツが死んだときみたいな嫌な思いをしたくないだけだ。胸糞悪いまま過ごしたくないだけだ。
誰かのためじゃなくて俺のためだ。人のためになりたいんじゃない。

全ての時間をそれにあてるのは現実的に無理だと思う。
ただ、何にもできなくても、あのときアレを本気でやってたからしょうがないとか考えられるように何かを夢中になってやればいい。
中途半端に余裕を残すから、悔しさが残る。

よくないことが起こりそうなときほど、いろんなことに全力で当たってやればいい。

俺の場合は、それが作曲だったり、仕事だったり、自炊だったり、こんなくそったれな記事を書くためだったり、いろいろあるけど、中途半端にやらずに、いろんな本気でやってみたら、もしかしたら、無為に無力感なんてものは味合わなくてもいいんじゃないか。

とかそんなことを思った。

まとめ

俺が作った曲に「わかってきたんだ」ってのがある。


もっとがんばろうって 思い立ったとき
背中押してくれる仲間が
周りにいることが 大切なんだと
今になって分かってきたんだ

もっとがんばろうって 熱くなれるような
世界見せてくれる仲間の
隣にいることで 輝けるんだと
今になって分かってきたんだ

自分が頑張るためには周りで褒めてくれたり、応援してくれたり、導いてくれたりする仲間がいたほうがいいな、って思ってる。
頑張るために誰かにいてほしいから、誰かのために頑張る、なんて再帰的だなとか笑えてくる。

俺は克己心のない人間なので、一人で何かやろうってことはできないんだからしょうがない。

何はともあれ、仕事でも趣味でも勉強でもなんでもいいけど、本気で頑張ってみようと思う。