自分は罰を受け続けているんだと思います。
思えば、ろくなことをしてこなかった。
もちろん、自分の言葉で救ってあげられた人もいると思う。
ただ、自分の言葉で殺してしまった人もいる。

確か8歳になった直後の夏休みだったと思う。
京都の梅小路公園であったイベントに自分が通っていた児童館として参加した。
そのときに折り紙でなんか作る催しがあったんだけど、向かいに座って苦労していた女の子を手伝ったら仲良くなった。

名前は智美といった。彼女は耳が聞こえなかった。
イベントが終わってからも手紙やりとりしたり、中学とか高校になったらメールでやりとりしたり。
今考えると、一番、付き合いが長かったなぁ。

耳が聞こえないくせにピアノをやりたいという彼女のために、
鍵盤を弾いたら色がついた四角が流れる
今思えばチープなメディアアートを作ったのが初めてのプログラムだった。

19歳の9月ごろ、智美は入院した。心臓の病気と聞いた。
大学に入り直すために受験勉強をしていた最中だったので、
あまり会いにはいけなかったけど、何回かお見舞いした。

10月中頃だったかな、結果、最後になったお見舞い。

「元気になったら、これからもずっと遊んでよ」
「ずっとは辛いわ(笑)」

こんな感じのいつもの軽口だった。
いつもだったら、なんだよー、くらいで済んだはずの会話。
自分の死期を察してたのかな。その言葉で泣かせてしまった。
困惑してしまった俺はろくに謝りもしなかった。

2007年11月18日、智美は亡くなった。

模試を受けている最中に入った容体が悪くなったという連絡。
そんなに大層なことじゃないだろうと、あと一科目だったので、
それを受け終わったら病院に行ってやろうと思ってた。
受け終わって病院に向かっている最中、亡くなったという連絡がきた。

頭が真っ白だった。

それからどうしていたのかはっきり覚えていない。

コインパーキングで寒い中座ったり、御池通を東に向かって歩いたり、烏丸通を南に下ったり。
鴨川を見下ろして、この浅さじゃ死ねないなとか、そんなことを思った気がする。

後悔がすごかった。
すぐに行っていれば謝れたかもしれない。
模試を受けていなければよかった。
大学に入り直すことを決意しなければよかった。
すぐに謝ればよかった。
後日にでも謝りにいけばよかった。
軽口を言わなければよかった。

出会わなければよかった。

後日、高校の同級生とカフェに行って、泣いた。
それまで辛いことや悲しいことがあったとき、智美に相談していた俺は
「一人で強く生きていかなければならない」と思った。
「この罪を償い続けていかなければならない」と強く思った。

罪を償うために、誰かを目一杯幸せにしよう、とか驕り高ぶった考えだ。
人の悩みを聞いて受け止めて、解決に寄与できるなら頑張って動く。
罰なんだからしんどくて当然だとかそんな風に思ってた。
人の悩みも合わせて貯め続けて、どこにも吐き出してなかったら、そりゃ、潰れますよ。
そのたびに都合よく智美がいてくれたら、と思う。あんなことをしておきながら。

潰れた結果、誰かを傷つける。そんな繰り返し。

うちの社長は「何かを言われても100年後にはみんな死んでるんだから」というポジティブな言葉をよく使う。
そのたび、「7~8年前にはもう俺は死んでたんだから」というネガティブな言葉が脳裏によぎる。

この罪の恩赦は自分で与えるしかないんだろう。

人に許してもらうために、仕事を頑張って、人付き合いも頑張って。
人に尽くすために、お金を稼いで、一定の地位も得て。

今覚えば、無駄だったなぁ。

正直、これからどう生きていったらいいのか分からなくなっている。
人の助けになりたい、ってのも、両方本当の気持ちで、ただそれを貫くと幸せになるのが難しそうだってことも実感した。罪人が幸せを求めること自体が道理を無視している気がするけど。
懺悔の仕方が分からない。

詳しくこのことについて話したことも書いたこともなかったけど、一つこれが懺悔になればと思う。